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感想ブログ~演芸(落語・浪曲・講談)etc.~

第十二回玉川太福”月例”木馬亭独演会

2018年10月7日
「第十二回玉川太福”月例”木馬亭独演会」
 @浅草木馬亭





玉川太福・玉川みね子
清水次郎長伝 「石松と身受山鎌太郎」』
『地べたの二人 「木馬亭」』
~仲入り~
『西村権四郎』





この日は太福さんの出身地である新潟のTVが撮影・
取材をしていた。
そのためか、太福さんは意識的に客を煽りまくっ
ているように見えたが、その誘導の仕方が、昔の
ラガーマン時代に培ったもののように見えた(推測
の域を出ないが)。

 

浪曲の客は、歌舞伎や講談の客みたいにお上品じゃ
ない。待ってました、たっぷり、名調子、日本一、
の掛け声は、ほとんど脊髄反射的なもの。

 

客席最前列に小学生女子。
「それでは今日は、客席に配慮した演目を」、とい
うことで、「身受山鎌太郎」。
いつであったか、昇太師が、日曜日で家族連れの客
が多い独演会で、客層に一切頓着せず「長命」(短命)
をかけていた時のことが脳裡を過った。

 

「身受山鎌太郎」は次郎長伝のなかでも地味だ、と
言いながら、太福さんはけっこうかけている。理由
は分からない。いつもながら侠客ものは随所に光る
ものがあり、見惚れ聴き惚れて筋を追えなくなる。
非常に有名なフレーズ「馬鹿は死ななきゃなおらね
え」が耳に痛い。

 

そしていつもの「地べたの二人」シリーズ、本日は
特別ヴァージョン、木馬亭編。

 

期待して裏切られるのは悲しいので、淡く抱いて臨
んだ仲入り後。「講談で、『名月若松城』という…」
やった!「西村権四郎」だ!

 

別名「松坂城の月」。
天正15(1567)年、豊臣秀吉九州征伐豊前岩石城を
攻略の時。搦め手から攻めていた蒲生氏郷は、難攻を
極めなかなか陥落しないことに業を煮やし、自ら城へ
攻め込むが、敵の鉄砲の弾が、乗っていた馬に当たり
落馬してしまう。搦め手の門から出て来た島津の軍勢
に取り囲まれ、覚悟を決めたその時、やって来たのが
豪傑と聞えた西村権四郎。

乗って来た馬で氏郷を脱出させ、自身は寄せ来る敵兵
を打倒。一方秀吉方は態勢を整え直し、結果岩石城は
落城した。そして氏郷は伊勢松阪三十万石の城主となっ
た。ところが自らを助け最も目覚ましい働きをした権
四郎には、何も恩賞を与えなかった。

一年を経て八月十五日、氏郷は月見の宴、無礼講の席
で岩石城での手柄話をするが、権四郎に助けられた事
を認めない。権四郎は怒り、氏郷と口論になったが、
氏郷の提案で相撲で決着をつけることになり、氏郷が
負ければ助けられたと認める、勝てば認めず、更には
権四郎に腹を切れ、と促した。


権四郎は圧倒的強さで氏郷に勝った。氏郷は主君を投
げ飛ばす非道者、と怒るが、周囲の者達になだめられ、
奥の部屋に押し込められてしまった。
権四郎は殿の愚かさを嘆き、こんな人のために命を擲
つのは馬鹿らしい、と松坂の城を出て行ってしまった。

翌朝、心を落ち着けた氏郷は、権四郎を主君を諫めて
くれる良い家来であると思っていた。権四郎をとりた
てようとするが、昨夜城から逐電したと聞かされた。
四方八方探したが、見つけることは出来なかった。

氏郷は会津九十二万石へ移封となり、若松状の城主と
なった。八月十五日、中秋の名月の日の昼、やつれた
西村権四郎が現れ、もう一度氏郷の元で御奉公したい、
と頼み込んだ。再開を果たした氏郷は大いに喜び、酒
宴の席ですっかり酔い潰れてしまった。

あの日相撲に負けてしまったのが口惜しくて、以来稽
古に励んできた。今もう一度権四郎と相撲を取れば、
自分が必ず勝つという。権四郎受けて立つ。痩せ衰え
はしたが未だ強く、氏郷を投げ飛ばしてしまった。

おべっかを使う腑抜け野郎という謗りを受けたくない
ので、わざと負けるような真似はしなかった、主君を
投げ飛ばした自分は腹を切らねばならない、と権四郎
は言う。氏郷はこれを制止した。

あまりに痩せ衰えたので、心持まで痩せてしまったか
と思い、わざと酔った振りをして相撲をとらせたが、
主君に媚びへつらったりしなかったと権四郎を褒めそ
やした。そして今宵の月のごとく美しい心持ちの者が
戻ってきたことを喜びながら、主従長く盃を傾けた。

月光の冷徹な美しさというよりも、両者の心根
の円やかさと、奥行まで照らす広さ深さに、諧
謔をまぶした素晴らしい口演だった。