Impression>Critique

感想ブログ~演芸(落語・浪曲・講談)etc.~

立川談春独演会2023@小平

2023年4月16日(日)

 

立川談春独演会2023」

 ルネこだいら 大ホール

 

立川談春

『替り目』

~仲入り~

『包丁』

 

(気付かなかったが、立川流定紋は「丸に左三階松」で、これは「丸に右三階松」。二段目の松が右に寄っている)

 

チケットはだいぶ前に購入していたが、この日は「笑点」に、
既に何度か出演されている浪曲師の玉川太福師の曲師として、
御年100歳にして現役の玉川祐子師匠がご出演とのことで、
リアルタイムで視聴するべく仲入りで帰ろうと思っていた。

 

先頃、高田文夫先生プロデュースによる記念すべき落語会で
ある「立川流三人の会」の日に、打ち上げを辞して何故か政
治学者の三浦瑠璃氏と食事会をした現場を写真週刊誌に撮ら
れたことに幻滅していたのでそれでも仕方がないと思った。

 

基本的に芸事とプライベートは別と見なすが、今あの人と懇
意であることが世間に知れ渡れば、自分の立場がどうなるか
分からない人ではないだろう。とは言えその確信犯的な俗物
性を知らなかったわけでもない。
どう言い訳をするだろうという興味もあった。

 

今席も前座なし。春次郎さんはどうしたのだろう。
落語立川流」のサイトで前座に名前がないところをみると、
辞めたのだろうか。

 

”件の食事会には自分のカミさんも三浦氏の娘さんもいた”
と、男女の関係話に収斂させようとするが、世間が「見損なっ
た」と言うのはそうではなくて、落語家としての矜持に対する
疑念である。
そこから人間関係、特に夫婦の信頼関係云々、と言い始めたの
であっまた『替り目』やるのかなと思ったら案の定。
水先が見えてきたので段々不安になってくる。

 

だがマクラというか前説の内容が、長いのは常態だがいつもと
少し異なり、不安を払拭させるように徐々に明晰になってきた。
女性がまだ「春をひさぐ」ことでしか糧を得られなかった時代
の噺を自分は時代に合わせて変えるつもりはない、と言う。
女性の落語家がだいぶ増えたのだから、その人らが変えれば良
い、と。

 

”また『替り目』か、と思ったでしょう?”
(読まれている)

”俥屋さんの所からは長いことやっていない、あっもうこんな時
間だ今日久し振りに『おしくら』やろうと思ったのに出来ない”
(肝が冷えた。私は「そんな時代の噺」のなかでも女性をバカに
し放題のこの噺が大嫌いなのだ)

”あっそうだこの噺のやり方を解説するだけにしよう。
で、今日は『包丁』やりますので”

 

そこから始まった、圓生を端緒として近々真打トライアル興行を
行う弟弟子の弟子(甥弟子?)に至るまでの芸談随談が非常に興味
深く聴き入ってしまうと同時に、仲入りで帰ることは諦めざるを
得なくなった。すべて先を読まれているかのようで、恐くなって
きた。

 

オリジナルは永劫回帰する。ぷるぷる。

 

仲入り後。出囃子が「鞍馬」ではなく「三下り 中の舞」だった。
『包丁』を師匠談志に褒められた話は有名だが、談志が弟子を褒
めるのは、その弟子が危なくなった時だ、ということも何度か聴
いたことがある。談志の「褒め」は救いなのだ、と。
しかし移動中の車のなかで、談志が『包丁』を指南した話は初め
て聴いた(記憶の限りでは)。

 

”お前のは言葉が多過ぎるんだ”

と言い30分位でやり終えたことに驚いたが、後で運転していた人
(誰かは言わず)の話によれば、談志はずっとリズムを取りながら
やっていたという。そんなはずはない、と思ったが運転席のシー
トを一定間隔で蹴っていたらしい。
師匠談志が弟子のために時間を割いてネタをさらい練習したとい
うことに驚くと同時に有難いと思ったが、後で志の輔師の前でも
同じくやってみせたという。志の輔師は”いやあオレは『包丁』は
やらないよ”と言ったとのことだが。

 

私はそれを聴いて、談志は師匠としてではなく、一人の落語家と
して敵愾心をもって『包丁』を稽古したのではないかと考えた。
この話で低位置ながらも置かれたハードルを越えられた客はどれ
くらいいただろうか。
談春師が何故冒頭からの流れで『包丁』をかけると決めたのかや
や訝しんだが、望外の喜びだったのは確かだ。
終演したのはちょうど「笑点」が始まる時間だった。

 

くどいようだが神仏に誓って録音などしていないので、記憶が曖
昧で順番が前後しているのは確実だし捏造さえしている可能性が
あるが、貴重な話を忘れないうちに書き留める必要性を感じた。
すべてを覚えていられるはずもないし、差支えがありそうなこと
については一切書いていない。

 

談春師は来年芸歴四十周年を迎える。
このまま引き続き緩く追いかけるつもりだが、談志家元の言葉を
借りれば、誰かのファンになるということは、果たして良い誤解
なのだろうか、それとも悪い誤解なのだろうか。

どちらであろうと、生き甲斐であることに変わりはない。
Voilà exactemant raison de vivre.