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感想ブログ~演芸(落語・浪曲・講談)etc.~

玉川太福五夜連続独演会2023

2023年5月22日(月)~26日(金)

 

玉川太福五夜連続独演会~
     天保水滸伝連続通し口演~」

@新宿道楽亭

 

 

道楽亭での五夜連続独演会は今回で四度目とのこと。
今回も五月の第四週、玉川福太郎師匠のご命日が含
まれる日程である。
今年は十七回忌にあたり、例年全日曲師はみね子師匠
だったがご命日当日をはさむ三日間は山形に帰省され
るためお休みだった。

初回は『男はつらいよ』連続口演、二回目は『地べた
の二人』二席プラス日替わりテーマの二席、昨年の三
回目は『任侠流れの豚次伝』連続口演で、私は二回目
から参加したが、五日間連日ではなかった。
今回初めて五日間通して参加できたわけだが、振り返
れば二回目の「地べたの二人」シリーズは短尺とは言
え一日四席を五日間連続でこなしていたのだから、
太福師もみね子師匠も相当タフである。

一年後の今回は太福師に二人、みね子師匠に一人お弟
子さんがいて一門会の様相を呈していた。前三日間の
前読みは一番弟子のわ太さんで曲師は鈴さん、後二日
間の前読みは二番弟子のき太さんで曲師はみね子師匠
という布陣そのものが感慨深く期待が高まった。

浪曲は一人一節」といわれる。ややコンパクトなこ
の会場では、網目の差が顕著に身体に直接伝わってく
る。節は空間と時間を支配するが、その支配の有り様
は実に様々だ。例えば天中軒雲月師匠は小波大波を自
在に操るがごとく、大利根勝子師匠は雷鳴か巨星降る
がごとく。
太福師の『天保水滸伝』を筆頭とする古典の節は、聴
いていると固まった時間がゆるりと解けて滔々と流れ
ていくような感覚を覚え、いつの間にかその流れに吞
まれていることに気づく。近年はさらに耳や腹をビリ
ビリ震わせる迫力がある声に加え、滋味深い声、揺ら
ぎの声等のヴァリエーションが増えて、聴いていてと
ても心地よい。

今年は五日間その感覚をじっくりと味わうことができ
るうえ、”侠客づくし”で啖呵も堪能できるという大盤
振る舞いだ。
しかし大入りの予想に反してこの贅沢な空間は何故な
のか?
昨年の豚次伝では実現場はまだしも配信の方は五日間
のトータル200人越えと伺ったが此は如何に…
他の主催者による『青龍刀権次』連続読みは満席だっ
たと聞いたので、太福師の古典に人気がないわけでは
ない。すぐ近くの寄席で夜トリを取っていたのがお仲
間の某師だったとか、複合的な理由があったのかもし
れない。

 

天保水滸伝』は玉川派のお家芸とされている。
浪曲界には他派の持ちネタ(特に連続もの)を演じては
ならないという不文律があるようだが、浪曲という話芸
を後世に繋いでいくためにはもっとオープンにして誰で
も着れる着物にした方が良いのではないだろうかと客の
分際ながら思ってしまう。お家芸としての格はそのまま
で、手綱をゆるめて広範囲動けるようにすれば浪曲界そ
のものが活況を呈して後継者の問題もなくなるのではな
いだろうか。
伝統芸能であるからには、派としての格が大事であるこ
とは確かだしそれが魅力のひとつだと思う人もいるだろ
う。素人の勝手な思い込みだが特に木村派の後継者が現
れることを願ってやまない。言っても詮無いことだが、
もし自分が今20代、せめて30代だったら木村勝千代さん
に弟子入りしたかった(受け入れて頂けるかどうか分から
ないが)。

 

いずれにせよ、現時点で侠客ものの真髄としての『天保
水滸伝』を聴けるのは太福師の口演以外にはないと思う。
しかも至近距離で真正面から浴びることができるのは、
滅多にない好機である。

 

5月22日(第一夜)

わ太/鈴『阿漕ヶ浦
太福/鈴『清水次郎長伝「石松代参」』
~仲入り~
太福/鈴『天保水滸伝「繁蔵売り出す」』

「侠客づくし」と銘打つ今年は古典のみ十席。

第一夜、わ太さんは玉川一門に入門したら最初に習う演目
阿漕ヶ浦』。正直何度も聴いているので覚えてしまい、
唸れるのではないかと思うほどだが、わ太さんはだいぶ馴
染んで独自のクスグリなども入れ、深みが出て来た。
ただ、声量が過多で節も啖呵も同じ声量のため、会場が声
で満杯になり破裂しそうな感じになってしまい、やや辛かっ
た。
後で師匠からの指導があったが、この経験により会場の面積
によって声量を加減することを実地で学んだことになる。
師弟のやり取りを垣間見て、その場で演者さんの成長を見守
れるのも客としては得難い経験だ。

「石松代参」は玉川版の道中付けがあるもので、節付けが楽
しいこちらの方が断然好きだ。

「繁蔵売り出す」は芝清之の脚色。太福師が古典を演じる際、
必ず時代背景や内容に関する面白いエピソードをピンポイン
トで説明して頂けるので物語世界に入り易い利点がある。
それは同時に太福師の浪曲師としての個性でもある(或いは使
命?)。
福太郎師匠の外題付けを思い出して涙腺が緩んだが、無論
太福師の節は太福師独自の節だ。最後の「実るほど 首を
垂れる 稲穂かな」でまざまざと稲穂の姿が脳裡に浮かんだ。
節は耳から映像と感情を生み場を潤す。

〽人というもの ままならず

 

5月23日(第二夜)

わ太/鈴『不破数右衛門の芝居見物』
太福/鈴『梅ヶ谷江戸日記』
~仲入り~
太福/鈴『天保水滸伝「鹿島の棒祭り」』


太福師の師匠、みね子師匠の伴侶玉川福太郎師匠のご命日。
昨年は前日が日曜日だったので墓参に行けたが、今年は前
々日で体調が思わしくなかったため行けなかった。
この日に玉川のお家芸天保水滸伝』を生声で聴ける喜び。


わ太さんは太福師が何故か『阿漕ヶ浦』より先に一番最初
に習った「不破数右衛門」。師匠の教えに従い今日の声量
は良い意味でセーブされ、前職でのプレゼン力が生きたで
あろうクスグリもバッチリ決まっていた。

梅ヶ谷江戸日記』は福太郎師匠の得意ネタだった。何度
でも言うが、福太郎師匠に間に合わなかったことは一生悔
やんでも悔やみきれない。
梅ヶ谷関の「お大名でもおこもさんでも、梅ヶ谷を贔屓に
しようという心にかわりはない」という言葉は、美しい心
の在り様を率直に表しているが、結局おこもさんは火消し
の頭新門辰五郎で、千両箱を馬に載せてやってくる。
梅ヶ谷関が本心からそう言っているがゆえの摂理なのだ。
多分。

仲入りの時間は鈴さんとわ太さんによる浪曲会の宣伝コー
ナーとなり、日増しに上達して勢いを増していくのが可笑
しくも感心させられた。


「鹿島の棒祭り」。往時は子供も口ずさめたという外題付
けは、過去の音源も含め数えきれないほど聴いているが、
何度聴いても飽きないし詞の美しさと節の流麗さに心を奪
われ、利根の川に出でて幕末に颯爽と運ばれる心地がする。
その後の平手造酒を中心とする活劇の楽しさ。『天保水滸
伝』は講談より断然浪曲の方が好きだ。節はそれだけでカ
タルシスを約束する。
突然の”犬婆”と白いむく犬登場の不思議な可笑しさ。
それにしても「曲斬り」とはどういう斬り方なのだろう?

 

5月24日(第三夜)

わ太/鈴『寛永馬術 愛宕山 梅花の誉れ』
太福/鈴『明石の夜嵐』
~仲入り~
太福/鈴『天保水滸伝「笹川の花会」』

 

「梅花の誉れ」は福太郎師匠の場合、間垣平九郎の前の挑
戦者が石段から転落する場面でとても可笑しいクスグリ
入るが、わ太さんは虎造版「石松代参」のごとくあっさり
終わる。太福師も福太郎師匠はこうやっていた、と説明す
るのみだ。福太郎師匠そっくりそのままではない独自のク
スグリがあったら面白そうだと思うのは素人の浅はかな考
えだろうか。
曲師が鈴さんだと馬術らしくより軽快に聴こえる。

『明石の夜嵐』は立川談志家元が贔屓にしていた浪曲師の
一人、寄席読みの名人東武蔵の十八番ネタで、福太郎師匠
の持ちネタでもあった。
寄席読みの浪曲は通常よりテンポが速いと仰っていたが、
東武蔵の口演を聴くと確かにテンポが速いと言うかとても
リズミカルだ。メロディのない節語りキッカケがとても多
く、啖呵はスタッカートじみてタッタカしている。

【スタッカート】本来の音価(ある音<休止>に与えられた楽
譜上の長さ)よりも短く演奏すること。
ということは、無意識に尺を速めているのだろうか。
東武蔵が酒を注ぐときに舌を鳴らしててってってっ、と出す
擬音(ザ・ぼんちのおさむちゃんのアレ)がすこぶる愉しく軽
快だ。

キッカケと言えば、浪曲師港家小ゆきさんのyoutubeチャン
ネル「浪曲音楽部」(音楽界から浪曲界に入った浪曲師、
小ゆきさん、東家孝太郎さん、天中軒すみれさん、東家志乃
ぶさんがメンバー)の「節」に関する考察動画で、キッカケが
西洋音楽の歌唱法”レチタティーヴォrecitativo"(話すような独
唱)に似ていると指摘されており、確かにそうだ、と膝を打っ
た。

話自体は侠客ものの残酷さのなかに滑稽味が混在しており、
動きも多く太福師の持ちネタとして適確のように思える。
歌舞伎の『伊勢音頭恋の寝刃』の前段ということだが、副
題が「祟る妖刀」なので刀にまつわるエピソードゼロ、と
いったところだろうか。
芝居ネタとなると視覚的要素が重要になりそうだが、浪曲
には節という最強の情景描写がある。

講談の『古市十人斬り』にこの段があり、昨年宝井梅湯さ
んが連続読み公演をされていたが、残念ながら拝聴する機
会に恵まれなかった。この段だけでなく全編拝聴してみた
い。

鈴さんわ太さんによる仲入りの告知漫才(?)タイムも今日が
最終日でヒートアップし、まるで姉弟コンビのようだった。
そして太福師の湯呑みはご愛用のいつもの湯呑みではなく、
林家たけ平、三遊亭萬橘両師を主とする新生”にっぽり館”
の湯呑みだった。昼のオープン記念公演にゲスト出演した
流れのようだった(同じく宣伝告知の意図)。

「笹川の花会」は太福師の古典持ちネタ十八番と目される
一席であり、いつどこで聴いても不満に思ったことはない。
特に啖呵の凄味、迫力、緊張緩和の加減が絶妙だ。
侠客のスターが一堂に会する豪華で張り詰めた景色のなか
に流れる美しい義侠心。今席も素晴らしかった。

 

5月25日(第四夜)

き太/みね子『阿漕ヶ浦
太福/みね子『国定忠治 山形屋
~仲入り~
太福/みね子『天保水滸伝「蛇園村斬り込み」』

 

この日から曲師はみね子師匠、前読みは二番弟子のき太さん
になった。
そしてBS朝日の「自分流」というTV番組の密着取材が入ると
いう。極力映りそうもない場所に座ると決めていた。

き太さんは来月6月の試験に受かれば定席デビューが叶うとの
こと、客としては見守ることしかできない(後日、合格して8
月の定席デビューが決まった)。

国定忠治 山形屋』。玉川版忠治はこの「山形屋」しか聴い
たことがないが、太福師によれば全十話あるという。自分が
生きているうちに拝聴できるだろうか。諧謔と侠気の格好良
さが交々あらわれる、これもまた太福師の芸風を象徴する古
典ネタで、今席も聴き応え十二分だった。

「蛇園村斬り込み」。TVカメラの影響もあったかもしれない
が、斬り込みの場面が超絶素晴らしかった。客の見えない熱
視線の束をはっしとつかみ、縦横無尽に振り回すがごとくの
熱演。客席全体が陶然として、私は胸の内でひゃーひゃーと
声なき声を叫んでいた。たまらなかった。
これぞ浪曲侠客ものの極点の一つだ。

 

 

5月26日(第五夜・千穐楽)

き太/みね子『阿漕ヶ浦
太福/みね子『天保水滸伝「平手の駆け付け」』
~仲入り~
太福/みね子『天保水滸伝「繁蔵の最期」』

 

とうとう第五夜千穐楽
き太さんは一歩一歩前進している。みね子師匠が導く音は
盤石だ。

「平手の駆け付け」は大師匠三代目勝太郎師匠の流れを汲
むものとのこと。正岡容の脚本で序盤~中盤は講談の「潮
来の遊び」に似ている。ということは落語の『明烏』にも
似ているわけだ。一天にわかに掻き曇る式に大利根河原の
決闘場面となり、息を呑む展開が続き平手死す。何度聴い
ても素晴らしい。

「繁蔵の最期」は初代東家浦太郎の流れを汲むもので、玉
川版の『天保水滸伝』にはなく、講談の『三浦屋孫次郎の
義侠』にあたる。出所は同じ講談本なのだろうか。
侠客の義侠心を謳いあげる節はやはり最強のカタルシス
現出する。大団円。



実に濃密な至福の五夜だった。
道楽亭での五夜連続独演会は今回で最後とのこと。
甚だ残念だが、玉川の清き流れが脈々と続くことを願っ
てやまない。

玉川太福師の口演で初めて浪曲を生で聴き、話芸観が
一変したのが2017年、6年前のことだ。太福師のファン
になり浪曲そのものに魅せられて今に至るが、太福師が
常に”一推し”である理由を改めて考えてみると、着実に
芸を高めつつも常に黎明にいて動いているからだと思い
至った。

初めて聴いたのは自作新作(『銭湯激戦区』)と古典(『中
村仲蔵』)一席ずつで、当初は古典に傾いていたが徐々に
自作新作にも面白さを見出せるようになった。
太福師自身、一時期はソーゾーシーの活動がメインで元々
歴史に興味がなく古典はどうでもいい、という意識だった
ようだが、何がきっかけかは不明だが新作と古典の両輪を
回していく、という考えに変わったようだ。

それに呼応するように私自身も変化していった。客も成長
するのだ。しかし太福師が新作のみで古典を捨てるとなれ
ばファンでいられる自信はない。もちろん有り得ないこと
だが古典のみでも然りで、新作のみしか聴かないという人
もいるかもしれないが私は両輪あっての太福師に浪曲師の
raison d' être(存在理由<価値>)を見出している。創作物以
外の「実況浪曲」「ルポ浪曲」などの新機軸浪曲も画期的
だ。


浪曲に興味がなくなるということは生涯ないし、一人の演
者さんを推しているからといって他を否定することにはな
らない。取り込まれているのは浪曲そのものだからだ。

花は”人”を定めぬものなり。

道楽亭での「時」を感じさせる年季が入っためくり