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感想ブログ~演芸(落語・浪曲・講談)etc.~

薩摩切子

サントリー美術館で今日まで開催されていた
「一瞬のきらめき まぼろしの薩摩切子」
展に赴いたのは今月5日で、この日は夜マタイ受難曲
聴きに行く予定もあった。先月の28日、夜坂本龍一教授のコ
ンサートに行くついでに行こうと思っていたら、火曜日が唯
一の休館日。出掛けに何時まで開館だったかネットで調べて
判明。危機一髪。5日は火曜日だが祝日なので開館していた。



この美術館は、2007年に赤坂見附から「六本木東京ミッド
タウン」などというおしゃれ気な場所に移ってしまったの
で、行く気が殺がれてしまう。



そもそも「薩摩切子」とは何か。
2000年神戸市立博物館で開催された、
「びいどろ・ぎやまん・ガラス」
図録の説明が分かり易いので以下に引用する(表現
を直截的に変えてあります)。



幕末に九州の薩摩藩で作られたガラス。
ここでのガラス製造は島津家27代藩主、
斉興によって弘化3(1846)年に開始
され、つづく斉彬の代に大きく発展した。

江戸からびいどろ職人の四本亀次郎を招き、
当初は薬瓶の製造を目的としたが、5年後
には藩の科学者たちと協力して紅色のガラ
スを生み出したと伝えられている。


その後、安政2(1855)年には郊外の磯とい
う場所に大がかりなガラス製造設備が築か
れ、その他の様々な工場群とともに集成館
と呼ばれるようになった。

ここでは紅ガラス製造竈4基、水晶ガラス
(クリスタル・ガラス)製造竈1基、板ガラ
ス製造竈1基、鉛ガラス製造竈大小数基
あったと記録されている。

また、ここを見学したオランダ人医師ポンペ
によれば、安政5年当時、百人以上がガラス
製造部門で働いていたということからも、
かなり大規模なガラス製造が行われていたこ
とがわかる。


同年に斉彬が没した後もその事業は継続され
たが、文久3(1863)年に集成館は薩英戦争で
消失した。ガラス製造はその後も近くで再開
され、明治初年まで続いたという。無色透明
ガラスに赤や藍色の色ガラスを被せてカット
を行った製品が薩摩切子として特に有名であ
る。ただ、薩摩ガラスの職人が明治前期に東
京で製作した切子が、今日の伝世品の中には
含まれていると推測される。

 

 

今年は斉彬生誕200年にあたるそうだ。
篤姫」人気も手伝ってか、けっこう人が入っている。
薩摩切子は「器」の形をしていても、稀少品ゆえ1点
1点が美術工芸品的「作品」である。


今もって色ガラス以外の無色透明の切子、切子以外の
ガラス製品に関しては、「薩摩ガラス」であると特定
できる根拠は曖昧で、謎が多いとされている。



展示品は、「びいどろ・ぎやまん」という冠がつく展覧
会には毎度お馴染みのものばかりであり、正直見飽きた
感がある。しかし「蝙蝠」が彫られた『藍色被船形鉢』
は何度見ても飽きない。用途不明だが、「盃洗」と言わ
れていたという。


他の無色透明で文様が異なる船形鉢は「菓子鉢」であっ
たり「筆洗」であったり色々だ。今回特に目をひかれた
のは、19世紀中頃に作られた製薬館製ホクトメートル
1式だった。ホクトメートルとは液体の比重を計る器
具のことだが、その1式のうちのシリンダーの底面に、
脚付杯と同様「切子」が施されているのである。
素晴らしい。



図録のみ買い、美術館を後にする…と、けっこう歩いて
から傘を忘れたことに気づき、引き返す。



展示品もそうだが、図録の執筆者も毎度お馴染みの面々
だ。中でもガラス研究の権威棚橋淳二氏の「切子文様の
分類」は非常にマニアックで読み応えがある(少々げん
なりする程の細かさ)。



「考古遺物」としてのガラス製品は、基本的に「稀少品」
である。古代の数珠や「玉」が貴重品であるのは言うまで
もない。工業的に生産されるようになっても、幕末~明治
時代には高級品であり、市井の人に「日常雑器」として使
用されたことは稀であり、性質上変化・風化しやすく、器
物の完形品が出土するということはまずない。


簪・笄が出土するとしても、完品であることは少ない。
それが瓶(ビール瓶とか)であった場合は「あーはいはい
近代近代」となって一転し、半ばゴミ扱いされてしまうの
は皮肉なことだ(最近はそうでもなくなってきたようだが)。



他の物質の「モノ」(土器・陶磁器等)に比し、ガラスは
絶対値が少ない=研究者も少ない、ということになるのか
もしれないが、日本の考古学業界でガラスを研究している
人を寡聞にして知らない。地中に眠っているガラスを「発
掘」できるのは限られた人だけなのに。勿体無い話だ。