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感想ブログ~演芸(落語・浪曲・講談)etc.~

玉川太福・神田松之丞二人会

2018年8月14日
「第十四回 玉川太福・神田松之丞二人会」
 @日本橋社会教育会館ホール




田辺いちか安政三組盃 羽子板娘』
神田松之丞『和田平助
玉川太福・玉川みね子
佐渡へ行ってきました物語』
~仲入り~
太福・みね子『清水次郎長
      「石松と見受山鎌太郎」』
松之丞『卒塔婆小町』



田辺いちかさんは、田辺一邑門下の前座さん。
張扇が似合わない程可憐な感じ。
安政三組盃』は、「講談中興の祖」松林伯圓
筆による、
江戸幕府潤沢係の鈴木藤吉郎が収賄
で獄死した事件を題材に脚色した、津の国屋小
染を巡る色模様の物語。

和田平助正勝(1625(寛永2)年-1683(天和3)年)。
水戸藩士で、特に徳川光圀の寵愛を受けた。
抜刀術(居合)新田宮流の祖。愛息が21歳の若さで
急逝し(原因は平助にある)、常軌を逸して狂気に
陥る。それを理由に降格、ついには放逐されたが、
水戸藩はその非凡な剣技を惜しんで戻そうとした。
しかし平助は既に自害していた。

飛ぶ鳥を落としまくって喰らいまくる勢いの松之丞
さん、マクラで衝撃の告白。ラジオ(問わず語りの
松之丞)で言っていた、その週末に金沢でオペラと
共演予定のはずが、未だ一行も書けていなかった
新作講談『卒塔婆小町』。何とか集中して短時間
で完成させたが、いきなり金沢でぶっつけ本番は
不安なので、ここでネタ下ろしするという。
なんという僥倖!どよめく客。
しかも、「太福兄さん」の出番の間に稽古しよう、
というふてぶてしさ。


そして当の太福兄さんは、何と『佐渡に行ってき
ました物語』。2年前、松之丞さんと佐渡の「小木
演芸場」に出演するため赴いた時の、「微笑ましい
松っちゃん」エピソード満載の新作浪曲
今までポッドキャストでしか拝聴したことがなかっ
たが、まさか、御本人が聴いている状態で、ライヴ
で拝聴できるとは!
「松之丞さんは、どんな表情と姿勢で答えたか」が
目で見える。正に「生」の醍醐味。
大いに湧く客。爆笑に次ぐ爆笑で、会場内が揺れて
いた。

仲入り後。清水次郎長伝からの一節を無難にこなす
太福さん。刀を鞘におさめ、何やら諦念めいたもの
さえ感じられた。

そして神田松之丞渾身の(?)ネタ下ろし。

ラジオで一行も書けていない、と言い、何日か後に
Twitter
「できた。やればできる子」とTweetして
いた新作講談。まさかそのネタ下ろしをここで拝聴
できるとは。その(大学生のレポート徹夜明けみたい
な)「一球入魂」状態は、後頭部の寝ぐせが如実に
語っていた。


三島由紀夫の近代能楽集『卒塔婆小町』には、トーマ
ス・マン『ヴェニスに死す』に通じるテーマが通奏低
音として聴こえるが、果たして松之丞版はどうなのか。
客電が落ち、極度の緊張感が横溢する会場。仕事帰り、
諸事情による疲労感等も手伝い、意識が遠のき(おいお
い)、
極度の緊張感が睡魔を呼び寄せ、張扇の「パアン!
」という音で何度か現実に引き戻される場面があった。
せっかくのネタ下ろしなのに、勿体ない…しかし不可抗
力…『天保水滸伝 鹿島の棒祭り』の「犬婆」とは質を
異にするであろう「深遠なる婆」の造形は朧気である。

後日、オペラと共演『卒塔婆小町』新作講談披露公演は、
大成功したらしいが、ラジオでこの二人会の客及び「兄
さん」まで腐していたのは頂けない。曰く、
「THE お笑
い」の会だから、
「びっくりする程不評だった」「もっ
とざっくり言うと教養のない奴等の前でやったから」
「どうせバカが聴いてるから分からねえや」ってなあ…

勿論すべてまともに受け取るつもりはないが、ちょっと
言い過ぎ。己の未熟さを客のせいにするのは頂けない。
談志イズムとは齟齬がある。

それにしても、御本人が自嘲気味に仰っているように、
何故「リア充」になる前に知り得なかったのか。
ルサン
チマンや飢餓感で鬱屈した精神状態での『慶安太平記
をこそ拝聴したかった。カエルポンプファイルとか、ぬ
るい物を売って小金が溜まって来ている状態での「鐡誠
道人」とは、比べるべくもない。

これまた御本人が仰っていたように、「それはそれで」
確かに良くはあるのだが。





(覚書)<真夏の死>
和田平助(及び三島由紀夫)で想起した、若くして亡く
なった大学の同級生のこと。そいつはすべての講義を
最前列ど真中の席で受けるような奴で、所謂「人たら
し」だった。常に他人に「可愛がられている」状態で
ないと、不安になるのがありありと分かった。それが、
父親不在を起因としているのかどうかは分からない。

そいつは無事に就職先も決まり、卒業までの猶予期間
に、気が緩んだのかどうか分からないが、酔っ払って
道路に飛び出し、自動車にはねられて亡くなった。
ただ一人の家族である母親を残して。

今世紀最大のバカ。究極の親不孝。その母親の喪失感、
というものを想像しようとしたが、戦慄してかなわな
かった。今でも偶に、あの母親は今どうしているのだ
ろう、と考えることがある。
戦慄するほとの喪失感の暗い穴は、少しでも塞がった
のだろうか。
時間と言うものは、それほどまでに有能なものなのか、
と。

三島由紀夫の小説『真夏の死』は、主人公の女性の、
子を亡くした喪失感と罪悪感が癒えたとき、さらな
る不幸を欲するという、人間の「業」の一面を描い
ているが、もはや幸福のための不幸なのか、不幸の
ための幸福なのか、分からなくなってくる。

本当に、時間は万能である、と言えるのだろうか?

滓が残るようにして、分かったこと。
Zuckerbäckerei Kayanumaのクッキーは、冷凍
すれば1ヶ月もつ。