2014年8月9日
「柳家喬太郎みたか勉強会:夜の部」
@三鷹市芸術文化センター星のホール
林家なな子『一目上がり』
柳家喬太郎『百川』
~仲入り~
入船亭小辰『鰻の幇間』
柳家喬太郎『らくだ』
喬太郎師の『らくだ』を聴けるとは・・・!
素晴らしい、何かもう、筆舌に尽くし難い面白さ。
マクラ一切なしで始まった瞬間、「え?『らくだ』
じゃん!」と会場の空気が変わったのがありあり
と分かった。
欲を言えば、久六と半次が菜漬け桶にらくだを
押し込んで焼き場まで行く、「最後」のオチまで
聴きたかった。
例えば志らく師の『らくだ』だと、らくだに苛められ
た久六のルサンチマン由来の悲哀、が印象的だけれど
も、喬太郎師の久六は、「らくださんに苛められない
と、『生きている』実感が得られない」と言う。
さしずめレゾン デエトル(存在理由)の悲哀(諧謔)、
ということなのだろうか?
いやもうそんな理屈はどうでもよい。
喬太郎師の著書『落語こてんパン』(1999)の
『らくだ』の項には、「いつかやってみたい噺」と
書かれており、当時はまだ「持って」いなかった
ようだが、去年ちくま文庫で出た文庫版では、
「文庫版の追記」として、
「この文庫が世に出る頃、僕は入船亭扇辰師との
勉強会で『らくだ』をネタおろししているはずである」
と書かれている。つまりネタおろししてまだ間もない、
ということだ。満を持して、と言うか、最高に面白かった。
因みに昼の部ではゲイ版の『芝浜』であるところの、
『芝カマ』をかけたそうだが、聴けなくて大変残念だ。
痛恨の極み、と言うかかける噺が昼夜逆なのでは?
と言いたくなってしまう。
『芝カマ』という題名は、昨今では差別的ではあるのだが、
そう言い始めたら落語なんぞ聴けなくなってしまう。
しかしこの「暗黙の了解」は、古典に限って、のことだ。
良い子なら分かりますね?