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感想ブログ~演芸(落語・浪曲・講談)etc.~

『これやこの』サンキュータツオ随筆集

これやこのサンキュータツオ随筆集サンキュータツオ

   株式会社KADOKAWA 2020




落語会、演芸会、寄席に足を運ぶようになってから
10年程経った。

学者と漫才師の二足の草鞋を履くサンキュータツオ
という芸人さんが、席亭ではなく本来学芸員を表す
「キュレーター」として、「渋谷らくご」と称する
新しいコンセプトの落語会を主導運営していること
は知っていた。

そのコンテクストを知り、初手から敬遠していた。
曰く、「初心者が楽しめる」「若い世代に知ってほ
しい、来てほしい」。
昨今流行りの言葉を用いれば、正面から逃げも隠れ
もせずエイジズムを表明していると言っても過言で
はない(そしてエイジズムは必ずルッキズムをも連れ
てくる)。

魅力的な演者さんが顔付けされていると知りつつも、
半ば僻みっぽく「誰が行くものか」と思っていた。
「シブラク文化」においては、ドレスコードならぬ
暗黙のルックスコードがあり、客にも一定の資格が
求められるのだろうと(ルッキズムを連れてくる、と
いうのはそういうことだ)。


全体の約半分のページを占める表題作「これやこの」。
落語家柳家喜多八師、立川左談次師の最晩年が活写さ
れている。
私は残念ながら御二方の高座とはあまり縁がなかったが、
新しい舞台で若い世代の打てば響く反応を糧に、病を凌
駕する勢いでまさに高座に命をかける様子は、感動的で
ある。

そして53pのこの言葉で文字を追う眼が止まった。

「(……)ここにきて確信した。師匠は、一席ずつ、
 落語にお別れを
言っているのだ、と」

これは最晩年の立川談志の高座に対して、弟子の志らく
が言ったことと同じだ。志らく師は著書『落語進化論』の
”あとがき”で、

「何故二〇一一年になって家元談志が出ない声を出し
 よろよろと高座にあがりながらも、そのたびに違う
 ネタをやっているのか。『己れが愛した落語と一席
 ずつお別れをしているんだ』と私は思います。」

と書いている。

最後に談志の高座に接したのは、2011年1月、練馬文化セ
ンター大ホールで行われた立川談志一門会だった。
事前に談志は落語ではなくトークのみ、と知らされていた。

しかし、トリで登場し座布団に座った談志は、かすれた声
で、落語を語りだした。『子別れ』だ。それも上「強飯の
女郎買い」の後、客席の誰にともなく「まだこの先もやり
ますからね」と言い、下「子は鎹」までの通し。

私は咽び泣きたくなるのを必死に堪えた。
出ない声を振り絞り、醜態を晒すものか、という鬼気迫る
気概を感じて、絶対に聴き逃しては、見逃してはいけない
のだ、と自分に言い聞かせた。

談志が『子別れ』を通しで演じることは滅多になかったと
いう。最後の高座、川崎市麻生区民ホールで行われた「談志
一門会」でかけた『蜘蛛駕籠』は、近年まったくかけなかっ
た演目だ。談志は自分の死期を悟ってそうしたのだろうか?

志らく師の推測通り、高座にあがることができる限りは、
落語との別れの儀式を一席ずつ執り行うつもりだったのだろ
うか。そして喜多八師、直弟子の左談次師も、また。
表現する人は皆同じ振舞いをするものなのだろうか?

談志の死。
全幅の信頼をおいていた表現者を喪失した、ということ。
心の一部を摑み取りされたかのような苦痛と、失った後の空虚。
日常を過ごしながら、心の片隅ではじっとその空虚を凝視して
いた。

そして一年後、談志より一歳下の父が、談志の命日の翌々日に
亡くなった。私はもう考えることも想うこともできなくなった。

2014年、談志の三回忌の後、立川談春師がエッセイをまとめた
『赤めだか』以来の著書『談春 古往今来』を出版された。
談志の死について沈黙していた談春師が、そのことに関して
文藝春秋に綴った「さようなら、立川談志」が掲載されており、
再読して最後の部分、

「断ち切んなきゃいけない。
 葬儀で流れた『ザッツ・ア・プレンティ』って、
 『さようなら』なんでしょう。『これで満足』って
 言われりゃ、残された奴は明くる朝からごはん食べて、
 会社に行かなきゃいけない。」

を読んで、「何か」を取り戻したような気がした。
果たして父は闘病の末満足して亡くなったのだろうか?
考えると果てしないが、そう、残された奴は諦めて、
惜し気に引きずっていた枯れた花束を捨てなければ
いけない。

記録する、という行為は、人に特化した営為だ。
今例えば古典芸能の公演を記録しようとすれば、
音、映像を録音、録画するという手段がある。
(個人で許可なく行うのは犯罪だが)

しかし、その「場」の雰囲気や空気、音と視覚
の関係性は、客観的な「描写」でしか残せない。
「語り継ぐ」(パロール)ことはできるが、
記憶は次第に薄れていく。
「書き留めること」(エクリチュール)もまた、
人に特化した営為である。
書き手には他人に想像力を惹起させるある程度の
サービス精神が要求される。
「客」観性が。

『これやこの』。表題作以降は、身内や知人の死に関して
の「思い」が書かれている。最後の「鈍色の夏」は、まだ
記憶に新しい、36人もの人が亡くなった京都アニメーショ
ン放火事件と、企業球団の投手須田幸太選手について書か
れており、他の項とは熱量が異なっている。

登場人物が死ぬと分かっている推理小説を読むようなもの
で、無意識にその「誰か」に感情移入しようとする。
何故なら、喪失感の大きさは得たものに比例するからだ。

ふとしたことから大ファンになったある演者さんが、
シブラク独自の会を月に一度開かれていると知り、
意を決して行ってみよう、と思い立った(シブラクピー
ポーの範疇からは外れているであろう人間が客席にいる
のはその演者さんにとって甚だ迷惑だったかもしれないが)。

結果として予想通りの洗礼を受けたが、その会は非常に斬新
で面白かったのですっかりはまり、最終回まで月に一度通っ
てしまった。
それ以来、良い顔付けの会には時々足を運ぶようになった。
恐る恐る、シブラクピーポーの顔色を窺いながらだが。


「喪失」よりも「拒否」の物語の方を多く語れる気がする。


ともすれば身内と同じくらい心奥に深く刻み込まれている、
ある人の死。


大学のクラスメイト。
いつも講義室最前列ど真ん中の席に座っていて、
恐いもの知らずで、「僕を可愛がってください」と
子犬のような意識を臆面もなく晒し、見えない尻尾を
ぶんぶん振って、嫌いな物・人には容赦なく砂をかける、
そんな奴。

大嫌いだった。
始終見えない砂をかけられていた。
4年になり、最終学期。
卒業までの春休み中に、就職先も決まって
バイトをしていたそいつは、
夜酔っぱらって道路に飛び出し、
自動車に衝突して亡くなった。

母子家庭なのに。
残された母親の喪失感を想像しようとして、
あまりの大きさ深さに戦慄してやめた。
その母親のためにそいつと代わってあげたい、
と思う程だった。

永遠の21歳。
その母親は今どうしているのか。
喪失感はどれくらい塞がったのか、共存しているのか、
ふと考える時がある。

「向こう20年で亡くなっていく既存の落語ファン」
ではないが、30年後は些と怪しい。
「空虚」を埋めるためかあらぬか、「歓待の掟」に
背く招かれざる客は、今日もおずおずとユーロライブ
があるビルの前に立つ。