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感想ブログ~演芸(落語・浪曲・講談)etc.~

講談漫遊記 Vol.2

2018年11月17日
「神田松之丞 講談漫遊記Vol.2」
@かめありリリオホール



神田松之丞
赤穂義士銘々伝 安兵衛駆けつけ』
赤穂義士銘々伝 安兵衛婿入り』
〜仲入り〜
赤穂義士外伝 荒川十太夫



独演会の形式は7月の博品館劇場以来。
先日の「グダグダな仲蔵」に対する、やや複雑な
印象を良い方向に更新できるのだろうか。
大いなる期待を胸にリリオホールへ(遠い)。
時間ギリギリ。


席は後方下手側だったが、前の席が二席、横が
二席ずっと空席だった。マクラは歌舞伎(役者)
界隈に関する腐し他。これは明らかに客差別で、
「日常的に歌舞伎と親しんでいる客」にしか通
じない。もっと言えばそういう客にしか来てほ
しくないのか?と勘繰ることも可能。


歌舞伎は現代では「古典貴族芸能」と化し、嗜
む客を選ぶ娯楽となっている。その状態を否定
するものではないが、江戸時代~幕末明治時代
において、歌舞伎役者はアイドルであり、一個
一銭の泥面子のモチーフになるような、身近な
存在であった。


歌舞伎鑑賞が社会的ステイタスと化している現
代において、そのことが却って俗物性を高めて
いる、という皮肉。歌舞伎をフルコース、講談
を大衆食堂の定食、と階級づけるのはいただけ
ない。もしや講談を歌舞伎のような貴族芸能に
する腹なのか?と邪推してしまう。


『安兵衛駆け付け』。元禄七(1694)年2月11日、
伊予西条松平家に仕える菅野六郎左衛門と、
同藩村上庄左衛門は些細なことから高田馬場
決闘をすることになった。中山安兵衛は世話に
なった六郎左衛門に助太刀をし、村上方を倒し
た。これが世に言う「高田馬場の仇討」である。

高田馬場は、寛永十三(1636)年3月5日、三代
将軍家光の命により高田(現・新宿区西早稲田
三丁目)に完成したもので、東西百八十間(約24
m)、南北二十六間余(約50m)であった。
そこに後の堀部安兵衛が、仇討の助太刀をする
ために駆け付ける顛末を描いたもの。


助太刀の殺陣場面の格好良さもあるが、滑稽味
が勝っている。しかしやたらと「ババア」を連
発し過ぎているように感じた。
落語と同じで、「お婆さん」を演じる時の所作
(両手を胸に当てて首を前後に動かす)は記号的
だが、安兵衛があまりにも「ババア」を連発す
るので、
客の反応が鈍かったように見えた。

初めて松之丞さんの会でアンケートを書かせて
頂いたが、ひと言「ババアに頼り過ぎ」と書く
に留めた(所詮にわかですから)。



『安兵衛婿入り』。これは琴調先生伝だろうか。
講談に出てくる大盃はすべて「武蔵野」と称す
る、その理由は「飲みつくせぬ」を広い武蔵野
を見つくさぬの意の「野見つくさぬ」にかけた
もの、云々。堀部安兵衛武庸(たけつね)として、
堀部家に婿入りするまでの顛末を描いたもの。


赤穂藩堀部弥兵衛の妻と娘が、高田馬場の仇
討を見物していた際、襷が切れて往生していた
安兵衛に、緋鹿子の衱を投げてやった。その際
の安兵衛の「格好よさ」を弥兵衛の妻が再現す
るのだが、「駆け付け」の実際の場面に引き続
いて、
他人視点で仇討場面を演じる、というの
はけっこう高度な技なのではないか?と思わせ
られた。これにより中山安兵衛は堀部弥兵衛
気に入られて婿入りし堀部安兵衛となり、後に
赤穂浪士四十七士の一人として主君浅野匠内頭
長矩の仇討をする…



『荒川十太夫』。その堀部安兵衛が討入りの咎
切腹する際、介錯をした荒川十太夫。安兵衛
に名と身分を尋ねられ、身分が低い者に介錯
されるのは切なかろうと、咄嗟に「物頭役」で
あると偽りの返答をしてしまう。


兵衛の墓参をする際、内職で溜めた金で身なり
を整え、御経料を納めて偽りの許しを乞う。
その姿を松平隠岐守の御目付役、松本源左衛門
に見咎められるが、結果として忠義心により本
当に物頭役に取り立てられる。
「だまされて心地良く咲く室の梅」


客電を落とし、スポットライトが当たる。
痛いまでの静寂。緊張感のなか、忠義心の美し
さを滔々と語って大団円。
「らくらくフォン世代は暗くなると眠くなる」
という腐し言葉が想起されて少し心がざわつい
た(必ずしもその世代に当たらずとも)が、こ

堀部安兵衛に焦点をあてた演目セットは、私の
ような講談初心者にはうってつけで、定番化し
そうな番組だと思わせられた。


しかしあの規模のキャパシティ(定員600人ぐら
いか)のホールで、後方の席で講談や落語を聴く
のはやはり少々辛いものがある。