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感想ブログ~演芸(落語・浪曲・講談)etc.~

立川談春独演会2018@紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA

2018年1月8日
立川談春独演会 2018」
 @紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA





立川談春
六尺棒
『藪入り』
~仲入り~
『庖丁』

 


談春師の生高座に初めて接したのが2010年3月。
1990年代、談志メインのTV番組「落語のピン」
をきっかけに、落語のマイ・ブームがあったが、
実際に寄席や落語会に足を運ぶことは無かった。



何をきっかけにして談春師の落語会に行き、
そこから色々な落語家さんの独演会・落語会や
寄席に行くようになったのか、もはや記憶の彼
方である。当時から、師匠談志に「俺より上手
い」と言わしめた演目『庖丁』を拝聴するのが、
自分なりのひとつの目標だったような気がする。



東京近郊、埼玉と、都合がつく限りは談春師の
高座を拝聴しに出かけた。勿論コンプリートは
不可能。
『らくだ』『居残り佐平次』は何とか拝聴する
ことが出来たが、一年経ち、二年、三年経って
も、一向に『庖丁』を拝聴出来ない。



ここにもやや不穏な感じで愚痴を書き連ねたよ
うな記憶があるが、もしかしてこのまま一生聴
くことは叶わないのか...と諦めかけていた。



しかし昨年末、興行元から年始恒例の談春師独
演会チケット先行予約のメールを受け取ったと
き、そこに記されていた、ネタ出しの演目を見
て眼を疑った。


『庖丁』『藪入り』


え?(『藪入り』は意外だったが『庖丁』にしか
眼がいかなかった)


こうして苦節8年目にして、ようやく談春師の
『庖丁』を拝聴できる、と分かった時の歓喜
戸惑いと、その他色々混じった感情は、我なが
ら表現するのは難しい。とにかく現実感が希薄
だった。


幸い先行予約に当選したので、良席ではないが
チケットは確保できた。場所は終演時間が商業
施設の閉店時間を過ぎると、エレベーターでし
か降りられないのが不便な紀伊國屋サザンシア
ター(髙島屋と共同経営になったのか、TAKASH
IMAYA、が付加された)。その日は祝日で終演時
間が早かったので、その憂いはなかった。



サザンシアターがあるビルは、現在洋書専門の
「Books  Kinokuniya Tokyo」のみになり、他は
ニトリの商業スペースになってしまった。
年始のセールには来れなかったが、当然のごと
くフランス関係のチェックと、まだ50%offの輸
入カレンダーを購入できた(今年はBoschになって
しまった)。



今や御弟子さんは、二ツ目のこはるさんだけになっ
てしまった。
開口一番代わりの『六尺棒』。
初日をわざわざ選ぶひねくれ者の客、というのが存
在するとしても、この日(8日・祝日)を選んだのは初
日だからではなく、単に休日だからです(あとは平日
夜だった)。



そして『藪入り』。同時期に独演会で同演目をかけて
いた某弟弟子が、「これは子供をもつ親でなければ出
来ない噺だ」と、半ば談春師に喧嘩を売るというか、
牽制したらしい。



しかし、談春師は初日は「甥と姪がいますので」でかわ
した。


私はそんなことはない、と思った。子供がいなければ、
子供がいる客からはその想像力を引き出せばいいだけだ。
双方いなければ、想像力のぶつかり合いになり、それは
それで面白い。大体、そんなことを言い始めたら、殺人
を犯したことがない人間は云々、というような話になっ
てしまう。表現者が客の想像力を限定してしまっては愚
の骨頂である。



仲入りの最中、本気で動悸がしてきた自分を必死に誤魔
化す。



ほとんどマクラなし。「こういう小悪党をやらせたら云々」、
という、やや自虐的な発言から始まる。



談春師の啖呵が素晴らしいのは、「どうやったら言葉だけ
で相手を切れるか」と、本気で考えているのではないか、
と思われるフシがあるからだ。しかしその一方で、女性を
演じても違和感があまりないのが不思議だ。



「寅」が「静」(客席)に向かって「いい女だねえ!」と言
うとき、その先に毎日本当の談春師のおかみさんが座って
いたら面白い、などと考えてしまう。また、18~20歳位の
「静」の、「娘」特有の冷徹さがたまらない。



会場の空調効き過ぎで(自分の)頭が鈍った部分があった
が、噂に違わず、素晴らしかった。待った期間があまり
に長かったため、現実感が希薄で、反芻しながら記憶を
繋ぎとめている状態ではある。是非もう一度拝聴したい
ものである。


ただ気になったのは(私だけかもしれないが)、どこか元気
がないように見えること。痩せられたのは健康のためだと
しても、顔色が悪いし覇気がない様子が窺える。単に「円
熟」の境地に至った末のご様子であるならいいのですが。


『庖丁』を拝聴できたということは、もうこの世から消え
ていい、という神様の思し召しなのかもしれないが、まだ
『九州吹き戻し』も拝聴していないし、『白井権八』だっ
て一度しか拝聴していない。
現に『藪入り』もネタおろしであったわけだし、と抵抗し
てみる。



最後、手締めがあって良かった。
今年も命が続く限り(大袈裟)談春師の生高座に接したい。